-すべて仮名です-

  フジハラさんがこの店を辞めるらしい。6月の給料の締め日、つまり7月の10日に辞めるらしい。フジハラさんはおれの大学の先輩で、おれが17時に出勤すると全ての仕事をおれに引き継がせて、自分は作業するおれに免許取るときは光悦は辞めとけ、宝ヶ池は車がボロやからあかん、岩倉が消去法でいちばんだ、とかベラベラ話してくる。小太りの男。おれは大学時代悪友にそそのかされてタバコを吸い始めたけどキミはタバコは吸わないようにね、とか半笑いで言ってくる。メンソールのハイライトを見せながら。たぶんタバコを吸っている自分を見せたいんだろう。タバコを吸うことで優位に立てると思っている可哀想な小太りの男。講義サボりすぎて就活には苦労した、キミはこうなったらあかんよ、とか言ってくる。たしかにおれはコンビニくらいの大きさしかないこのボロスーパーに正社員としても雇われていない小太りのあなたのような男にはなりたくない。契約社員の小太りの反面教師。フジハラさん。

 

 フジハラさんが辞めることを知ったのはこの前のバイトだった。19時ごろ、フジハラさんが帰ったタイミングで惣菜部門のオギノさんが声を掛けてきた。オギノさんは教職を取っている。剣道部らしくて、いかにもそれらしい短髪と、制服のポロシャツが破れるんじゃないかというくらい隆々とした筋肉を持っている。仕事も速いので、いつも19時にはほとんど仕事を終わらしていて、それからはバックヤードで在庫を整理したり、携帯を触ったりしている。この人に事務所で携帯を触っていてもバレない、と教えられてその通りにしていたら普通に怒られたのであまり信用はしていない。けど、こんなおれと喋れるコミュニケーション力もあるし、上からも下からも慕われる教師になりそうだと思っている。

 「フジハラさん辞めるって聞いた?」

「え、マジすか?」

「実家帰るらしい」

「家業継ぐとかなんすかね?」

「どうでもええなぁ」とオギノさんは自ら振った話題にも関わらず会話を終わらせてきた。

「間違いないすね」とおれは返したけれど、おれの部署からひとり減るということはこちらにその負担のしわ寄せがくるので全くどうでもいい話ではなかった。

「フジハラさぁ、いっつも自慢話ばっかりするくない?あいつのタバコの銘柄とかマジでどうでもええんやけど」

 それには同意するものがあった。おれは人の悪口をいっさい言わない人間を信用しないことにしている。オギノさんはやっぱり良い教師になりそうだと思った。

 

「あれ、ナカエくん来てるやん!何時から来てた?」

 オギノさんはレジの方を見ながら言った。1レジ、つまりメインレジの方に大会前の野球部ばりの真っ青な坊主頭の青年、ナカエくんがいた。

「18時すぎとかですかね?」

「あの子ヤバいらしいで」

「どういうことすか?」

「今2レジのスギオカさんに普通にタメ語で話すらしい。一個下やのに。」

「マジすか?てことはナカエくんとおれ同級生ですね!年上やと思ってましたわ」

「あれ、知らんかったん?大学も同じやで。ナカエくんは理系らしいけど」

「えぇー、言われてみれば理系ぽいすねー」

「それでスギオカさんめちゃくちゃ気持ち悪がってあんま一緒に入りたくないらしいねん」

「ヤバいですねー」

 おれはオギノさんの話に表面的には同意していたけれど、じっさいそこまでナカエさんに嫌悪感を抱いたことはなかった。むしろ、大学二年生にしてその五厘刈りに、黒いズボン着用が義務づけられているのに、ベージュのチノパンを履いてくるその人物におれはとても興味を抱いていた。喋りたくはないけれど。でもいつか坊主の理由くらいは聞きたい。思い出してみれば声を聞いたことがない。狭い店だから、レジをするときに適正とされている声量を出していればおれの作業場まで聞こえることがほとんどなんだけど、ナカエくんの声は聞いたことがない。そういえばいつもおれがきわめて爽やかに「お疲れ様っしたー」と言っても返事が返ってきた試しがなかった。思い出すととても腹が立ってきて、どんどんナカエくんの坊主頭が気持ち悪いものに思えてきた。

 

「おい、変わってるって思われたいんかい!」

「黒ズボン着用義務あるのにそれ破ってるオレカッコいい!って見せたいんかい!」

「いや、これは合理性を追求した結果の坊主でして、日々どうすればより合理的に生活をできるか考えた結果の坊主頭ですね。とか言ってきそうやな!理系特有の口調で!」

「お前みたいな丸坊主がAirMax履いて来んな!まずバイトにそんな良いスニーカーで来んな!自慢か!」

 

とか、ナカエくんに心の中でひたすら罵詈雑言を浴びせかけてしまっている。たぶんオギノさんもスギオカさんも引くレベルで思ってしまっている。でもおれはたぶんナカエくんにこれからもきわめて爽やかに「お疲れ様っしたー」って言えると思う。おれはそういう人間だから。

 

 

 

 いつも、おれはオギノさんと喋っている間、ナカエくんやフジハラさんを徹底的にバカにし続けている。でもおれはその日遅れて事務所に上がってきたナカエくんにきわめて爽やかに「お疲れ様っしたー」と声を掛けることがやっぱりできてしまったし、つぎフジハラさんと話す時も笑顔を絶やさず完璧な相づちで彼の武勇伝を聞けるだろう。おれはそういう種類の人間だから。